2570年7月24日 法話
覚性の鈍い凡夫は、苦難によって磨かれなければ、無常なるがゆえの苦に気づくことができない。しかも、たとえ苦難を経験しても、ひとたび安穏を得れば、再び安逸の中に沈んでしまう。
しかし、絶え間なく続く激しい苦難に耐えながら、心身に異変を来さずにいられる者は、おそらく多くはない。一方、自分の意に逆らわない順境が続けば、無常の変化を目の当たりにしても、まるで自分とは無関係であるかのように見過ごしてしまう。これこそが、利己心である。
人が自分の利益を優先するのは、もとより珍しいことではない。しかし、人生が順調であるがゆえに、無智のまま利己心を募らせるならば、覚性を見いだすことは、さらに難しくなるであろう。
覚性は、真実を見いだすための基礎である。覚性が顕れなければ、人は永遠に、自ら制御することのできない因果の流れの中で生き続けることになる。たとえ今は順境にあっても、ひとたび耐え難い苦報が身に降りかかれば、自ら強いと信じていた心が一瞬にして崩れ去ることも、決して珍しくはない。
なぜなら、その強さと称するものも、覚性を基礎として築かれたものではないからである。「自分は強い」という思いそのものが、虚妄なる仮象にすぎない。
仏法に説かれる「八難」とは、あるいはこのようなものなのかもしれない。仏法を聞くことができず、福報があまりにも大きく、苦難があまりにも深く、執念があまりにも強い――すなわち、すべてが極端に均衡を失った状態である。
もし果報がこのようなものであるならば、それは喉を締めつけられているのと変わらない。息をすることさえ難しく、真実の息吹に触れる機会も、ほとんどない。それゆえ無知の中に囚われ、いのちに対する慈悲の心も生じない。
八難という牢獄の果報からは、長い劫を経ても、なお出離することが難しいのかもしれない。
覺性遲鈍的凡夫,不經苦難磨礪,無法察覺無常故苦。而即便歷經苦難,一朝安隱則又沉淪於安逸。
然,持續且強力的苦難,恐怕沒有多少人能承受而不生異變。而不拂心意的順境常存,對無常變化視若無睹,彷彿與己無干,這就是自私。
自私自利本為常態,但因人生順遂而無智的自私,恐將更難掌握覺性。
覺性為發現真實之基礎,覺性不顯則永遠活在失控的因果,即使現處順境,旦有難以承受的苦報加身,則瞬間自認堅強的心理崩潰也是常態。畢竟所謂的堅強也並非建立於覺性的基礎上。自認一說即等於虛妄不實的假像。
佛法說的八難,也許就是這樣。不聞佛法,福報過大,苦難過深,執念過強,也就是,極度不平衡。倘果報如此,與被掐住脖子無別,難以喘息,呼吸真相的氣息的機會近於零,故困陷無知,於生命無悲憫。
八難的牢獄果報,也許長劫都難以出離吧!
出典:法性宝林 圓悟法師ご開示
